【寺西南都】私はこうして作家になったpart3
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シナリオセンターに通い、脚本家として生きていくためのスキルを学んだ。
しかし、作家として生きていくことはそう容易いものではなかったのだ。
作家になれたきっかけ
しばらく、シナリオセンターで勉強を続けるも何も変化がない……。「なぜだ……一向にライターになれる気がしない」
そんな時、見つけたのが某脚本家の主催するワークショップのお知らせだ。
考える間もなく、速攻で応募。
およそ5倍以上の倍率(主催者談)をくぐりぬけ、あっさり参加が決まる。
しかし参加者を見てびっくり。
シナリオコンクール受賞者、すでに脚本家デビューしている人、女優兼ライターの美人など、スクールにいる人とはレベルが違う。
「私、ここにいていいのだろうか……」と一瞬だけ弱気になるも、
絶対に爪痕を残さなければと火がついた。
授業は毎回、テーマにそった企画書を提出し、それについて、議論するという流れだった。
第1回目は、昼ドラを想定して、企画書とプロットを出すのが宿題。
そこで私は会社員時代の憧れの先輩から受けたアドバイスを思い出す。
「目立たなければ意味がない」と。
だから何を血迷ったか、『南無南無 あいしてる』なんていう少しふざけた題名の、坊さんと崖っぷち年増女の恋愛ミステリーを提案した。
結果はまずまず。
そうして全4回授業が終わる頃、なぜか、私がその先生の事務所に誘われた。
『実力枠』、『美人枠』、『一時の気の迷い枠』、があるとすれば、完全に『一時の気の迷い枠』採用だろう。
しかし、どこかの枠に入れば結果オーライだ。こうして、ようやくライターの道に1歩近づいたのである。
そんな事務所に入って一発目のミッションは……
「連ドラ決まったんだけど、1話の初稿を書いてみて」と軽く言われる。
「マジか……なんの実績もない素人だぞ。これはもしや試されているのだろうか?」
奮闘するも、当然、今まで学んできたことはなんだったのか状態……。
まるで戦力にならず撃沈。
それから、アシスタントで様々な脚本のお手伝いさせてもらうも、書いても書いても正解がわからない。
面白いってなんだろうか。
プロの世界の厳しさを思い知った。
ある日、先生に「どうしたらうまくなりますか?」と聞いてみたことがある。
するとかえってきた言葉が……。
「クソみたいな男とたくさん付き合え」
「なるほど、クソみたいな男とたくさん会えばいいのか。ってことは、やっぱり婚活か!」(←違う)
こうして事務所を円満退社し、ほんのわずかな実績をひっさげて再び婚活の場へ繰り出すことになった。
「以前の私とは違う。なぜなら、私はシナリオライターだから!」
そう調子に乗って、作家だと豪語する日々。
そんなある日、友人から「ゲーム会社の副社長と合コンするんだけど、来ない?」とお誘いを受ける。
アプリのセールスランキング20位以内常連の有名ゲーム会社だった。
その合コンの場で、シナリオライターであることを告げると、いとも簡単に仕事を頂くことになる。
「こんなにあっさり仕事もらえるものなの!?」
こうしてアクションゲームのシナリオを書かせてもらうこととなった。
「婚活万歳!」の瞬間だった。(目的違うけど)
そのゲーム会社で、生まれて初めて接待というものを受ける。
同じ場にいたのが、現在PTAに所属している先輩の日高さん、永野さん、市川さんである。
さらには出会ったばかりの市川さんから、「制作会社のディレクターが女性ライターを探しているから」と連絡をもらう。
当然「やります」と即答。(いつも返事だけは早い)
テレビ番組の構成作家デビュー。そして挫折。
そこで頂いたのが、NHK Eテレ「おとなの基礎英語」のミニドラマ脚本のお仕事である。
だか、私は現場で打ちのめされることとなる。
初めて一人で現場に出た。本打ちだって初めてのことだった。
アイディアがすぐに浮かばない、発言するのが怖い、
いつもの調子のいい言葉が出てこない。
「ロケのこととか、ちゃんと考えてる? 予算は限られているんだ!!」
ゲームシナリオに慣れすぎていた私は、制限が多い実写ドラマの現場で困惑。
たくさんのスタッフさんの協力のもと、なんとか完走はできた。
だが、完全に自信を失っていた。
part4へつづきます
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