【楢原拓】昭和末期を語り尽くす!(2) 「バレーボール ワールドカップ '81」
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- 楢原 拓
- 昭和末期を語り尽くす
前回から随分と時間が経ってしまいましたが、お待たせしました。第二回目です。
ラグビーのワールドカップ、盛り上がってましたけど、その裏でもう一つのワールドカップが開催されてましたが、お分かりですかね?
ラグビーのおかげですっかり影が薄かったようですが、そう、バレーボールです。
今年は男子が久々に強くて、メダルこそ逃したものの28年ぶりに4位に食い込みました。
ロンドン、リオと、2大会連続でオリンピック出場を逃していた男子としては近年稀に見る好成績でした。
東京オリンピックもメダルに届きそうな勢いです。
それに比べて女子の成績が5位と奮わなかったのが大変残念です。
かつて日本のバレーはお家芸ともいうべきもので、女子は東洋の魔女でお馴染みの1964年の東京と、1976年のモントリオール、男子は1972年のミュンヘンと、計3つの金メダルを獲得しています。
特に女子は、これからお話する1981年のワールドカップまで、三大大会すべてで金か銀メダル。
とにかく世界のトップチームだったわけです。
ちなみに私は小・中学校とバレーボールやってたバレー少年だったんですが、そのきっかけとなったのが当時、再放送されていたスポ根アニメ「アタックNo.1」でした。
それでなんとなくバレーに興味を持ち始めたところに開催されたのが1981年の「ワールドカップ '81」という大会でした。
前年1980年のモスクワ・オリンピックでは、日本の女子バレーは金メダルが有力視されていたのにもかかわらず、日本も含む西側諸国のボイコット(当時のソ連のアフガン侵攻に抗議して)により不参加となりました。
そんな中、リベンジの意味で挑んだのがこの大会です。
女子の初戦の相手は、モスクワ五輪の金メダルチーム・ソ連。
それを試合時間40分弱でストレート勝利!
勢いそのままに、韓国、ブルガリア、キューバ、ブラジルを次々と撃破。
第5戦目のアメリカと最終第7戦目の中国にはフルセットの末、惜しくも敗れたものの、5勝2敗で見事準優勝。銀メダルを獲得しました。
優勝は中国でした。今の中国の監督である朗平がエースアタッカーとして活躍し、高さとスピードで他を圧倒し全勝。三大大会で初のメダルを獲得し、中国黄金時代の幕開けとなった大会でした。
アメリカには195cmという当時としては驚異的な高身長のエースアタッカー・ハイマンという選手がいて、上から叩きつけるようなアタックで日本を苦しめたのが強く印象に残っています。
(ちなみにハイマンは、のちに日本リーグでも活躍しますが、その試合中に意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。)
日本の選手では、なんと言っても名レシーバー・広瀬美代子です。


元々拾って繋ぐのが日本の伝統的なバレーで、そのスタイルで東洋の魔女を生み出したニチボー貝塚からの流れを汲むユニチカ所属の選手でした。
今、バレーをやっている若い人にはホントちんぷんかんぷんでしょうが、、、何から説明しましょう。
まず、当時の日本国内のバレーリーグ(今はVリーグ)は「日本リーグ」と呼ばれていて、先ほどのユニチカと日立、この2チームで毎回優勝争いが行われていました。
1964年の東京オリンピックはユニチカの前身・ニチボー貝塚の選手を中心とするチーム編成、1976年のモントリオールオリンピックは日立の選手を中心するチーム編成で、それぞれ金メダルを獲得しています。
そして、この時の日本は、ユニチカの小島孝治監督率いるユニチカ中心のチームで、拾って拾って拾いまくる伝統のスタイル、それを体現していたのが広瀬選手だったわけです。
YouTubeにも動画あるので見てもらいたいものですが、とにかく拾いまくります。
この時代はリベロというのがありませんでした。
ポジションの呼び名も今とはまったく違います。
レギュラーの選手と共に紹介しますと、、、
セッター/小川かず子<ユニチカ>
ライトアタッカー(今のオポジット)/水原理枝子<ユニチカ>
レフトアタッカー1(今のアウトサイドヒッター)/横山樹里<ユニチカ> or 杉山加代子<日立>
レフトアタッカー2(今のアウトサイドヒッター)/広瀬美代子<ユニチカ>
センター1(今のミドルブロッカー)/江上由美<日立>
センター2(今のミドルブロッカー)/三屋裕子<日立>
広瀬選手は170cmと大変小柄なため、アタックでは外国選手の高いブロックに阻まれることが多い印象でしたが、守備力はホント神がかっていて、この大会ではベストレシーバー賞にも輝いています。
他にも横山樹里選手が大人気でその笑顔は「樹里スマイル」と呼ばれていました。この大会では捻挫で、控えに回ることが多かったのですが、その笑顔とパワフルなアタックはとても印象に残っています。

それから、このあとの全日本を牽引するセンタープレーヤーの江上由美選手・三屋裕子選手も人気ありましたね。
私のお気に入りは三屋選手で、小学生の時にファンレターを送ったことがありました。返事はありませんでしたが、、、。なぜか今はバレーボールではなく、日本バスケットボール協会の会長らしいです。なぜでしょう。

ルールも今とは大違いです。
今は1セット25点制で、とにかくボールが落ちれば点数が入ります(ラリーポイント制)が、その当時は15点制で、サーブ権がないと点数が入りませんでした。
ですから、いくらコートにボールが落ちようが、サーブ権がないと点数が入りませんので、拾って拾って何度もサイドアウトをとって粘るスタイルの日本にとってものすごく有利なルールだったようです。
また、サービスエリアというのももっと限られていて、コート幅の内、コートに向かって右側の3メートル幅の中からしかサーブは打てませんでした。(現在はコート幅9メートルをフルで使えます)
あと、今はサーブがネットにかかっても相手のコートに入ればOKですが、当時はサーブがネットをかすってもダメでした。
まあ、そんなルールの違いはさておて、とにかく人気が凄まじかったわけです。
サッカーのJリーグが始まる一回り昔、プロ野球に次ぐ人気スポーツと言えば、バレーボールだったように記憶しています。
視聴率も20%越えは当たり前。
私の小学校では、休み時間になると鉄棒をネットにしたバレーボールがよく行われていました。
もちろん私も参戦してまして、ある時、ブロックの着地の瞬間に鉄棒に歯をぶつけ歯が欠けてしまった、なんてこともありましたね。
今やおなじみの「ニッポン!チャチャチャ」もこの大会から生まれたらしいです。
私は8歳、小学2年生でしたが、日本中がこのワールドカップに、それこそ今のラグビーのように熱狂していたのを子ども心に覚えています。
残念ながら、その後、日本女子バレーは低迷し始め、翌1982年の世界選手権で初めてメダルを逃します。
1984年のロサンゼルスオリンピックでは、五輪で初めての銅メダル。今ではどんな色でも喉から手が出るほどほしいメダルですが、金か銀しか獲ったことのなかった当時の日本にとっては屈辱の銅メダル。当時の選手は帰国した時に恥ずかしくてメダルを外して空港に降り立ったらしいです。
そして、これ以来、長らく女子バレーはメダルから遠ざかる冬の時代を迎えます。
2000年のシドニーオリンピックでは最終予選で敗退し、出場すらできませんでした。
その後、メグ・カナの時代、木村沙織選手の登場などを経て、復調し、2012年のロンドン五輪で、28年ぶりに銅メダルを獲得することになります。
昭和ではなく平成の話になりますが、このロンドン五輪もものすごい印象深い大会で、特に準々決勝の中国戦はすべてのセットでデュースか25-23のフルスコア。最終セットはデュースの末に18-16で劇的な、そして歴史的(五輪で初めて中国を破る)な勝利を収めました。
長いことバレーを見続けてきて、1,2位を争う名勝負でした。
私にとって2012年で一番嬉しかった出来事は、日本女子バレーのこの銅メダルでしたね。
思えば、1981年のワールドカップの熱狂を再び思い起こさせてくれた、そんなオリンピックでもありました。
あっ、そうそう現・全日本女子の中田久美監督は、1980年に、15歳で全日本に招集されたようですが、このワールドカップ'81では登録メンバーから外れています。まだ中田監督が初々しい新人時代のことです。

そんな時代から中田さんを知っている私としては、2020の東京五輪でやはりメダルを獲ってもらいたい!
そしてかつてのバレーの熱狂をもう一度巻き起こしてもらいたいと、そう心から願うばかりです。
そんなわけで話は尽きませんが、今日のところはここまでで。
ガンバレ、ニッポン!
ロンドン、リオと、2大会連続でオリンピック出場を逃していた男子としては近年稀に見る好成績でした。
東京オリンピックもメダルに届きそうな勢いです。
それに比べて女子の成績が5位と奮わなかったのが大変残念です。
かつて日本のバレーはお家芸ともいうべきもので、女子は東洋の魔女でお馴染みの1964年の東京と、1976年のモントリオール、男子は1972年のミュンヘンと、計3つの金メダルを獲得しています。
特に女子は、これからお話する1981年のワールドカップまで、三大大会すべてで金か銀メダル。
とにかく世界のトップチームだったわけです。
ちなみに私は小・中学校とバレーボールやってたバレー少年だったんですが、そのきっかけとなったのが当時、再放送されていたスポ根アニメ「アタックNo.1」でした。
それでなんとなくバレーに興味を持ち始めたところに開催されたのが1981年の「ワールドカップ '81」という大会でした。
前年1980年のモスクワ・オリンピックでは、日本の女子バレーは金メダルが有力視されていたのにもかかわらず、日本も含む西側諸国のボイコット(当時のソ連のアフガン侵攻に抗議して)により不参加となりました。
そんな中、リベンジの意味で挑んだのがこの大会です。
女子の初戦の相手は、モスクワ五輪の金メダルチーム・ソ連。
それを試合時間40分弱でストレート勝利!
勢いそのままに、韓国、ブルガリア、キューバ、ブラジルを次々と撃破。
第5戦目のアメリカと最終第7戦目の中国にはフルセットの末、惜しくも敗れたものの、5勝2敗で見事準優勝。銀メダルを獲得しました。
優勝は中国でした。今の中国の監督である朗平がエースアタッカーとして活躍し、高さとスピードで他を圧倒し全勝。三大大会で初のメダルを獲得し、中国黄金時代の幕開けとなった大会でした。
アメリカには195cmという当時としては驚異的な高身長のエースアタッカー・ハイマンという選手がいて、上から叩きつけるようなアタックで日本を苦しめたのが強く印象に残っています。
(ちなみにハイマンは、のちに日本リーグでも活躍しますが、その試合中に意識を失い、そのまま帰らぬ人となりました。)
日本の選手では、なんと言っても名レシーバー・広瀬美代子です。
元々拾って繋ぐのが日本の伝統的なバレーで、そのスタイルで東洋の魔女を生み出したニチボー貝塚からの流れを汲むユニチカ所属の選手でした。
今、バレーをやっている若い人にはホントちんぷんかんぷんでしょうが、、、何から説明しましょう。
まず、当時の日本国内のバレーリーグ(今はVリーグ)は「日本リーグ」と呼ばれていて、先ほどのユニチカと日立、この2チームで毎回優勝争いが行われていました。
1964年の東京オリンピックはユニチカの前身・ニチボー貝塚の選手を中心とするチーム編成、1976年のモントリオールオリンピックは日立の選手を中心するチーム編成で、それぞれ金メダルを獲得しています。
そして、この時の日本は、ユニチカの小島孝治監督率いるユニチカ中心のチームで、拾って拾って拾いまくる伝統のスタイル、それを体現していたのが広瀬選手だったわけです。
YouTubeにも動画あるので見てもらいたいものですが、とにかく拾いまくります。
この時代はリベロというのがありませんでした。
ポジションの呼び名も今とはまったく違います。
レギュラーの選手と共に紹介しますと、、、
セッター/小川かず子<ユニチカ>
ライトアタッカー(今のオポジット)/水原理枝子<ユニチカ>
レフトアタッカー1(今のアウトサイドヒッター)/横山樹里<ユニチカ> or 杉山加代子<日立>
レフトアタッカー2(今のアウトサイドヒッター)/広瀬美代子<ユニチカ>
センター1(今のミドルブロッカー)/江上由美<日立>
センター2(今のミドルブロッカー)/三屋裕子<日立>
広瀬選手は170cmと大変小柄なため、アタックでは外国選手の高いブロックに阻まれることが多い印象でしたが、守備力はホント神がかっていて、この大会ではベストレシーバー賞にも輝いています。
他にも横山樹里選手が大人気でその笑顔は「樹里スマイル」と呼ばれていました。この大会では捻挫で、控えに回ることが多かったのですが、その笑顔とパワフルなアタックはとても印象に残っています。

それから、このあとの全日本を牽引するセンタープレーヤーの江上由美選手・三屋裕子選手も人気ありましたね。
私のお気に入りは三屋選手で、小学生の時にファンレターを送ったことがありました。返事はありませんでしたが、、、。なぜか今はバレーボールではなく、日本バスケットボール協会の会長らしいです。なぜでしょう。

ルールも今とは大違いです。
今は1セット25点制で、とにかくボールが落ちれば点数が入ります(ラリーポイント制)が、その当時は15点制で、サーブ権がないと点数が入りませんでした。
ですから、いくらコートにボールが落ちようが、サーブ権がないと点数が入りませんので、拾って拾って何度もサイドアウトをとって粘るスタイルの日本にとってものすごく有利なルールだったようです。
また、サービスエリアというのももっと限られていて、コート幅の内、コートに向かって右側の3メートル幅の中からしかサーブは打てませんでした。(現在はコート幅9メートルをフルで使えます)
あと、今はサーブがネットにかかっても相手のコートに入ればOKですが、当時はサーブがネットをかすってもダメでした。
まあ、そんなルールの違いはさておて、とにかく人気が凄まじかったわけです。
サッカーのJリーグが始まる一回り昔、プロ野球に次ぐ人気スポーツと言えば、バレーボールだったように記憶しています。
視聴率も20%越えは当たり前。
私の小学校では、休み時間になると鉄棒をネットにしたバレーボールがよく行われていました。
もちろん私も参戦してまして、ある時、ブロックの着地の瞬間に鉄棒に歯をぶつけ歯が欠けてしまった、なんてこともありましたね。
今やおなじみの「ニッポン!チャチャチャ」もこの大会から生まれたらしいです。
私は8歳、小学2年生でしたが、日本中がこのワールドカップに、それこそ今のラグビーのように熱狂していたのを子ども心に覚えています。
残念ながら、その後、日本女子バレーは低迷し始め、翌1982年の世界選手権で初めてメダルを逃します。
1984年のロサンゼルスオリンピックでは、五輪で初めての銅メダル。今ではどんな色でも喉から手が出るほどほしいメダルですが、金か銀しか獲ったことのなかった当時の日本にとっては屈辱の銅メダル。当時の選手は帰国した時に恥ずかしくてメダルを外して空港に降り立ったらしいです。
そして、これ以来、長らく女子バレーはメダルから遠ざかる冬の時代を迎えます。
2000年のシドニーオリンピックでは最終予選で敗退し、出場すらできませんでした。
その後、メグ・カナの時代、木村沙織選手の登場などを経て、復調し、2012年のロンドン五輪で、28年ぶりに銅メダルを獲得することになります。
昭和ではなく平成の話になりますが、このロンドン五輪もものすごい印象深い大会で、特に準々決勝の中国戦はすべてのセットでデュースか25-23のフルスコア。最終セットはデュースの末に18-16で劇的な、そして歴史的(五輪で初めて中国を破る)な勝利を収めました。
長いことバレーを見続けてきて、1,2位を争う名勝負でした。
私にとって2012年で一番嬉しかった出来事は、日本女子バレーのこの銅メダルでしたね。
思えば、1981年のワールドカップの熱狂を再び思い起こさせてくれた、そんなオリンピックでもありました。
あっ、そうそう現・全日本女子の中田久美監督は、1980年に、15歳で全日本に招集されたようですが、このワールドカップ'81では登録メンバーから外れています。まだ中田監督が初々しい新人時代のことです。
そんな時代から中田さんを知っている私としては、2020の東京五輪でやはりメダルを獲ってもらいたい!
そしてかつてのバレーの熱狂をもう一度巻き起こしてもらいたいと、そう心から願うばかりです。
そんなわけで話は尽きませんが、今日のところはここまでで。
ガンバレ、ニッポン!
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